西楚の覇王とは? わかりやすく解説

西楚の覇王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 06:01 UTC 版)

項羽」の記事における「西楚の覇王」の解説

項羽劉邦許した後、劉邦降伏していた秦の最後の王である子嬰とその一族処刑して、咸陽焼き払って財宝略奪したその後、ある論客から地の利便利な咸陽を都とするように進言されたが、項羽はこれを聞き容れず、「富貴得て故郷帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。誰も知ってくれはしない」と語った退出した論客は「人は『人とは沐猴獼猴一種)が冠をつけているのと同じ(沐猴而冠耳)』と申すが、まさにその通りである」と呟いたため、これを聞いた項羽激怒して、その論客捕らえて釜茹で処した項羽使者彭城に使わして、懐王報告を行うと、懐王は「始めの約(一番始め関中入った劉邦関中の王になること)のようにせよ」と回答を行う。 同年正月項羽も王になろうとして、秦を滅ぼすことに功績のあった諸将王侯任じた十八封建)。劉邦については、和解した上に、懐王の約に背きたくなく、諸侯背かれることを恐れて巴・蜀漢中与えて、漢王とした。項羽自立して「西楚の覇王」と名乗り彭城現在の江蘇省徐州市銅山区)を都と定めたまた、懐王尊んで義帝」と呼んで楚王から格上げ行った。他の封建詳細について楚漢戦争#戦争前の経緯参照同年2月遷都という名目彭城から義帝追い出し長沙の郴県に移すことにした。 同年4月封建が終わると、項羽含めた諸侯領国赴いていった。さらに留任させた韓王成彭城伴った

※この「西楚の覇王」の解説は、「項羽」の解説の一部です。
「西楚の覇王」を含む「項羽」の記事については、「項羽」の概要を参照ください。

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