西安蒙塵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
西太后は北京陥落前に貧相な庶民に変装して紫禁城を脱出し、途中山西省大同などに寄りつつ10月西安に辿り着いた。彼女はアロー戦争の時にも熱河に逃げており、これが生涯2度目の蒙塵(都落ち)となった。 この逃避行には甥の光緒帝も同行させたが、彼の寵愛を独占する珍妃を宦官に命じて紫禁城寧寿宮裏にある井戸に落とし殺害させている。光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を封じるためであり、珍妃の殺害を命じたのは彼女がやがて自身を凌駕する存在となることを西太后が危惧したことが原因だと言われる。珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍だった。 連合軍の北京占領はおよそ1年間続いたが、西太后はそれを嫌って帰京しようとはせず、西安滞在は1902年1月にまで及んだ。こののち西太后は鉄道を使って還幸したが、これが彼女にとって初めての鉄道乗車となった。下掲「東南互保」図に西太后と光緒帝の逃走路と帰還路を示す。
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