西国遊説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:45 UTC 版)
寛政2年(1790年)京都聖護院法親王邸で勤王家高山彦九郎と出会い、尊号一件に介入した幕府に対する義憤を語り合い、意気投合した。秋久留米藩家老有馬守居邸を本拠として宇佐・中津・熊本に遊説し、尊王斥覇論を唱えて朝廷への幕府の干渉を非難した。寛政3年(1791年)には京都で『日本書紀』神武天皇紀を講じた。 寛政4年(1792年)10月31年ぶりに出国禁止が解除された。 寛政5年(1793年)6月高山彦九郎が久留米で切腹したことを聞き、墓参に駆けつけた。寛政7年(1795年)6月萩春日神社中原讃岐に招かれて国書を講義し、小倉に遊説し、11月帰郷した。
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