西原村の村立て
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 01:57 UTC 版)
一番新しい村立ては、西里村から西原村への分村で、1873年(明治6年)のことである。首里王府から派遣された駐在官を在番というが、その「在番記」によると西里村は下知がいき届かないので最寄りをさし分けて新しい村をつくるよう、検使に命令されたという。また池間島の人口が増え惣頭1,800人になったので新村を建てるように言われ、新しい村を西原とした。民謡「島出のアーグ」(綾句)が残っている。これは前の国仲村への村立ての民謡とは別で、池間島を離れる悲しみはなく、将来への願望が強く歌われ、池間島の役人が作ったかと思わせると記載されている。 琉球王国から1873年(明治6年)に検使という大勢の役人が行政視察に来て新村建設を命令された。役人から命令され親子兄弟は引き裂かれた悲話が伝えられている。島の幹部が抽選できめたという記載もある。準備として一戸あたり宅地300坪、畑6反歩ずつ、また男子13歳以上のものには、さらに3反を増配したという。家屋は萱葺で、7坪半が与えられた。新村は90戸、人口は500名であった。集落の名前は検使の西原親雲上に因んだ。元々池間島では結束力が強いが、西原ではその気質をよく伝えて団結して事にあたる美風が強い。
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