被害と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:56 UTC 版)
噴出した火山灰の総量は 1.7km3と見積もられており、関東一円に降り注いで農作物に多大な影響をもたらした。 被災地の管轄は、小田原藩以外は幕領や旗本知行地が多く細分されていたが、幕府は全国各藩への石高に応じた課税により資金調達し被災各地の復興に努めた。小田原藩では自力での復興は無理であると判断し、領地の半分を幕府に差しだし救済を求めた。しかし、噴火から20年以上を経ても復興できない地域が多くあり、小田原藩の米の収量が元に戻るまで90年程を要した。 酒匂川流域では、堆積した火山灰(富士山周辺で推定40cm)により水位が上がり堤防が決壊し、水没する村が続出した。噴火の影響による洪水は100年余続き、大岡越前守忠相に見出された田中休愚が徳川吉宗の命を受けて享保11年(1726年)から復興に当たった。
※この「被害と復興」の解説は、「宝永大噴火」の解説の一部です。
「被害と復興」を含む「宝永大噴火」の記事については、「宝永大噴火」の概要を参照ください。
- 被害と復興のページへのリンク