衝突までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:15 UTC 版)
中越国境が確定していなかった時代には、老山・者陰山の一帯は中国側の領域と認識されていた[要出典]。 老山(海抜1422.2m)からはベトナム側のハザン市に伸びる道路が見渡せるため、中国・ベトナム双方はこの地域での優位を確立できる老山・者陰山高地群の重要性を認識しており、中越戦争の緒戦で楊得志司令(当時)指揮下の昆明軍区(中国語版)部隊が占領したが、中国軍が撤退するとこれを追撃したベトナム軍が奪回し、老山の主峰4箇所と者陰山の1250高地と1052.4高地に恒久的な陣地の構築を進めていた。 中越戦争での苦戦の教訓から、軍制改革と装備の現代化を進めていた鄧小平と、中越戦争での善戦で鄧小平から軍総参謀長職を引き継ぎ、中国共産党中央軍事委員会委員という政・軍の要職に就いていた楊得志は、軍制改革の効果を実戦で確認する場として、また中越戦争での撤退で低下していた中国軍の威信回復のため、そしてなにより国民の前で5年前の雪辱を果たして見せるため[要出典]、両山の高地群占領を計画した。
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