行進連隊と予備連隊
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「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「行進連隊と予備連隊」の解説
1945年3月1日、グスタフ・クルケンベルクSS少将は不利な状況を打破するために師団の戦地再編制を決定した。間もなく、クルケンベルクの命令を受けた第58SS所属武装擲弾兵連隊長エミール・レイボー武装少佐によって、師団最良の部隊を集めた「行進連隊」(Régiment de Marche)、それ以外の部隊を集めた「予備連隊」(Régiment de Réserve)が編制された。各連隊はそれぞれ2個大隊で構成されていた。この時の「シャルルマーニュ」師団の編制は次の通り。 「シャルルマーニュ」師団(1945年3月初旬・ポメラニア戦線) 師団長 エドガー・ピュオ武装上級大佐(W-Obf. Edgar Puaud) 行進連隊 エミール・レイボー武装少佐(W-Stubaf. Emile Raybaud)第I大隊 アンリ・フネSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Henri Fenet) 第II大隊 ジャン・バソンピエール武装大尉(W-Hstuf. Jean Bassompierre) 予備連隊 ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉(W-Hstuf. Victor de Bourmont)第I大隊 エミール・モヌーズ武装大尉(W-Hstuf. Émile Moneuse) 第II大隊 モーリス・ベレー武装大尉(W-Hstuf. Maurice Berret) 1945年3月4日、ヴァイクセル軍集団司令部の親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー(当時、ヴァイクセル軍集団司令官)と無線連絡を取ったグスタフ・クルケンベルクSS少将とエドガー・ピュオ武装上級大佐は、ケーリン(Körlin、現カルリノKarlino)でソビエト赤軍に包囲された「シャルルマーニュ」師団を数グループに分けた上での包囲突破を決断した。しかし、ケーリンの西部はソビエト赤軍に制圧されていたため、彼らはケーリン南東部のドイツ国防軍部隊が確保しているベルガルト(Belgard、現ビャウォガルトBiałogard)を経由して西を目指すことを計画した。 包囲突破に際しての行軍の順番は直ちに決定された。先鋒部隊はアンリ・フネSS義勇中尉の行進連隊第I大隊と師団本部が務め、その次にヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉の予備連隊(師団の中核)が続き、後衛部隊はジャン・バソンピエール武装大尉の行進連隊第II大隊が務めることとなった。 この時、クルケンベルクSS少将をはじめとするフランスSS部隊査察部のドイツ人将兵は先鋒を務めるフネの大隊に加わった。しかし、師団長のピュオ武装上級大佐は師団の最後の部隊が出発するまでケーリンに留まることを希望し、先鋒部隊へ参加することを拒否してヴィクトル・ド・ブルモンの予備連隊と共に待機していた。
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