衆愚政治と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 23:20 UTC 版)
「クリティアス (三十人僭主)」の記事における「衆愚政治と亡命」の解説
紀元前406年、アルキビアデス不在時のノティオン沖の敗戦で、クレオポンらはアルキビアデスの責任を問い、アルキビアデスはトラキアへ亡命する。同年、アルギヌサイの海戦(ペロポネソス戦争におけるアテナイの最後の勝利)で味方の救助を怠った罪でアリストクラテス、大ペリクレスがアスパシアに産ませた庶子小ペリクレス(英語版)(Perikles, 紀元前450 - 406)、トラシュブロスと共に四百人寡頭政へ反旗を翻したトラシュロス(Thrasyllos, ?-紀元前406)らを含む6人の味方の指揮官たちがソクラテスの反対にも関わらず処刑された頃、クリティアスも国外へ逃亡する(クリティアスがテッサリアに亡命した時期は不明で、紀元前409年頃からとする説もある)。この時の民衆への憎悪の体験が、彼を恐怖政治へ駆り立てたとクセノポンは『ギリシア史』で証言している(Xen.Hell.ii.3.15)。クリティアスはテッサリアでプロメテウス(Prometheus, 5世紀後半)らのテッサリアの民主化運動に参加したらしいが、その詳細は不明である(Xen.Hell.ii.3.15)。
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