藤原重家 (左近衛少将)とは? わかりやすく解説

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藤原重家 (左近衛少将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 00:43 UTC 版)

 
藤原重家
時代 平安時代中期
生誕 貞元2年(977年
死没 不詳
別名 光少将
官位 従四位下左近衛少将
主君 一条天皇
氏族 藤原北家九条流兼通流)
父母 父:藤原顕光
母:盛子内親王村上天皇の皇女)
兄弟 重家元子延子、重慶、顕忠
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藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代中期の貴族藤原北家兼通流、左大臣藤原顕光の長男。官位従四位下左近衛少将。容姿に優れ光少将と謳われた。

経歴

一条朝正暦6年(995年左近衛少将に任ぜられると、長徳5年(999年五位蔵人に補され、翌長保2年(1000年)には従四位下に至っている。

「光少将」と呼ばれ、当時美男の評判が高かった。

長保3年(1001年)いわゆる「寛弘の四納言」(藤原公任藤原斉信藤原行成源俊賢の4名)が陣座で朝政の議論をしている様子を目にして自らの非才を覚り、親友の源成信と共に園城寺にて出家して遁世した[1]。この報に接し、後継者を失うことになった父の顕光は悲嘆に暮れたと伝わる。

同じく近衛少将を務めて出家した寂源の弟子となった。没年含め、以後の消息は定かではない。

官歴

『近衛府補任』による。

脚注

  1. ^ 古事談』『愚管抄』『今鏡』などに拠る。実際には、長保3年2月の時点では行成は蔵人頭であり、まだ議政官にはなっていなかった(他の3人は参議)ため、非公式ならばともかく、「陣座で4人が揃って朝政を論じあうことがあったとは考え難い」とされる(竹鼻績『今鏡(中)』講談社学術文庫、1984年)。
  2. ^ 『権記』

参考文献




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