藤原公房 (小野宮流)とは? わかりやすく解説

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藤原公房 (小野宮流)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/05 03:13 UTC 版)

 
藤原公房
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長元3年(1030年
死没 康和4年8月28日1102年10月11日
改名 顕房⇒公房
別名 白髪宰相[1]
官位 正三位参議
主君 後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
藤原賢子中宮職
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原資房、母:源経相の娘
養父:藤原経任
兄弟 資宗、公房、琳慶、永源
通輔藤原敦宗
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藤原 公房(ふじわら の きみふさ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。初名は顕房藤原北家小野宮流参議藤原資房の次男。権大納言藤原経任の養子。官位正三位・参議。白髪宰相と号す。

経歴

後朱雀朝長久3年(1042年皇后禎子内親王臨時給により従五位下叙爵し、翌長久4年(1043年侍従任官した。後冷泉朝に入り、永承5年(1050年右近衛少将に任ぜられると、天喜3年(1055年正五位下、天喜5年(1057年従四位下康平6年(1063年)従四位上と昇進するが、この間の天喜5年(1057年)右少将から兵部大輔に遷っている。

後三条朝に入ると、延久3年(1071年)陽明門院(禎子内親王)の御給により正四位下に叙せられる。延久4年(1072年)12月に蔵人頭に補せられると、まもなく後三条天皇は白河天皇譲位するが、公房は新帝の蔵人頭に改めて補せられた。のち、左右兵衛督左京大夫を兼ね、承保2年(1075年参議に任ぜられて公卿に列した。

議政官として、引き続き左兵衛督・左京大夫を兼帯する一方、承保4年(1077年従三位に叙せられるが、承暦3年(1079年)には左兵衛督を辞した。承暦5年(1081年正三位に至る。寛治5年(1091年)子息の通輔を五位蔵人に補す代わりに参議を辞任して左京大夫のみを帯びた。

康和4年(1102年)8月29日に薨去享年73。最終官位は正三位左京大夫。

官歴

系譜

脚注

  1. ^ 『尊卑分脈』
  2. ^ 『中右記』康和4年8月29日条

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年



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