藤原伊周
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 03:19 UTC 版)
藤原 伊周(ふじわらの これちか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。最高官位は正二位・内大臣。
注釈
- ^ 『権記』は29日、『小記目録』は30日とする。
- ^ なお『小右記』によれば、法皇の従者の中に2名の死者が出たという。
- ^ 関口力は時期的に御屠蘇気分の中で発生した揉め事が拡大解釈されたと説く[6]。倉本一宏は事実として確認できるのは、隆家の従者と法皇の従者の揉め事が故為光亭前で起きたことに過ぎないとして女性問題原因説に懐疑的な立場を取る[7]。この年の『小右記』は正月16日から2月5日までの間に脱落があり、僅かに『三条西家重書古文書一』所収の『九条殿記裏書』に引かれる『野抄記』逸文から、「正月十六日、右府消息云、花山法皇・内大臣・中納言隆家相二遇故一条太政大臣家一、有二闘乱之事一、御童子二人殺害、取レ首持去云々」の一文が知られるのみである。
- ^ 「積悪の家天譴を被る」[4]
- ^ 「日ごろ水がちに、御台などもいかなることにかとまできこしめせど、あやしうありし人にもあらず、細りたまひにけり」『栄花物語』巻第八,はつはな[14]
- ^ 寛弘2年(1005年)道長邸の作文会での伊周作は「毎句有感、満座拭涙」する有様だった[16]。
- ^ 「心をさなくおはする人」[9]
出典
- ^ 『日本紀略』『公卿補任』『尊卑分脈』による[注釈 1]。
- ^ 北山 1970, p. 40.
- ^ a b c 倉本一宏 (2024年5月5日). “伊周か道兼・道長か、後継者をめぐる政争劇を時代考証が解説!”. 現代新書. 現代ビジネス(講談社). 2024年5月7日閲覧。
- ^ a b c d e 『小右記』
- ^ 『栄花物語』巻第四,みはてぬゆめ[注釈 2]。
- ^ 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版、2007年、234-235頁。
- ^ 倉本一宏『一条天皇』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年、68頁。
- ^ 『栄花物語』「浦々の別れ」
- ^ a b 『栄花物語』
- ^ 『権記』長保2年5月25日条(倉本一宏訳)
- ^ 『小右記』寛弘2年4月25日条
- ^ 『古事談』
- ^ 『小右記』寛弘4年8月9日条
- ^ 『新編 日本古典文学全集 栄花物語1』小学館、1995年、441頁。
- ^ 野田有紀子「平安貴族社会における女性の階層意識」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年、469-470頁。ISBN 978-4-88621-862-9。
- ^ 『小右記』同年4月1日条
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 『御堂関白記』寛仁2年10月22日条
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年等による。
- ^ 『大森葛山系図』による。
- ^ 『武蔵七党系図』による。
[続きの解説]
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