藤井皓玄の乱
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永禄12年(1569年)の北九州攻めでは信景を従軍させ、豊景は備後国に残った。同年8月3日夜、かつての神辺城主・山名理興の家老であった藤井皓玄が、織田信長の支援により尼子勝久の挙兵に応じて故旧約500人を糾合し神辺城を攻撃した。当時、神辺城主の杉原盛重は北九州に出陣して不在であり、留守居として庄原肥後守が神辺城を僅かな兵で守っていたが、衆寡敵せず城を逃れた。 藤井皓玄が神辺城を奪ったとの報せを受けた元就は、安芸国高田郡長田で尼子義久兄弟を監視していた内藤元泰に藤井皓玄の反乱を伝え、監視をさらに厳重なものとさせた。そして同年10月、豊景、村上亮康、庄原肥後守らが藤井皓玄を備中国浅口郡西大島で討ち取り、神辺城を奪還。神辺城へは杉原元盛・景盛兄弟を入城させ、さらに藤井皓玄の一族が籠城した備中高屋城を攻め落とした。豊景が藤井皓玄の首を元就の陣へ送ったところ、元就は「豊景は老身にして軍功比類無し」と称賛し、庄原元親と渡辺就国を豊景らのもとへ派遣。備後国中の一揆再発に備えて木梨城と有地城に豊景の兄弟を置き、人質を取るよう豊景に伝えた。
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