萬福寺と室生犀星
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「萬福寺 (大田区)」の記事における「萬福寺と室生犀星」の解説
室生犀星は昭和7年(1932年)馬込萬福寺境内に隣接する土地に家を建て、以降は終生軽井沢の別荘と馬込の自宅を行き来して過ごした。昭和2年(1927年)に親友であった芥川龍之介が死去し、芥川が住んでいた田端に住む理由が無くなったこと、同じく親友である萩原朔太郎に勧められたことなどから翌昭和3年(1928年)に山王 (大田区)に移った。しかし付近に小川や池があり地盤が良くないこと、まだ幼かった子供達が湿気が多いせいでよく風邪をひくことを憂えたことから近くの高台にある萬福寺のそばに住居を求めたことを日記に書き残している。 室生は作庭にも才能があり『庭をつくる人』『日本の庭』といった作庭をテーマにした随筆を執筆している。この萬福寺そばの自邸の作庭にも意を注いでいた。犀星の死後室生邸も庭も取り壊されてしまったが、犀星のつくった庭は近隣の人々にも強い印象を残しており馬込の隣、入新井(現在の大田区中央)出身であるイタリア文学者の河島英昭は自著の中で馬込を再訪した際のことを以下のように書いている。 臼田坂を上って、馬込に入った。かつての尾根道をしばらく進んで右へ折れ、東側の斜面に親戚の家を探したが、見つからない。昔は玉蜀黍畑が一枚あったあたりに、家が十数件も建っている。萬福寺の森の手前にぽつんと見えていた室生犀星の家は、もうなかった。あの庭もない。あとに建ったマンションらしきものは、見ないようにして立ち去った
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