菊池氏惣領の継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)
肥後国益城郡豊田庄(現・熊本県熊本市南区城南町)出身。柔弱な弟の武士の代理として、興国6年/貞和元年(1345年)に阿蘇惟澄と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主となった。 その後、南朝後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。正平6年/観応2年(1351年)には筑後国に進出して勢力を拡大し、正平8年/文和2年(1353年)2月には北朝の九州探題・一色範氏と少弐頼尚の争いに介入し、筑前針摺原にて一色探題軍を撃破する(針摺原の戦い)。同年7月には筑前飯盛山にて再び一色軍を破り、続いて正平9年/文和3年(1354年)からは豊後国・肥前国などに進出して大友氏泰を降伏させ、一色範氏を長門国に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した。 一色範氏は正平11年/延文元年(1356年)10月に九州へ再度侵攻するが、武光は豊前国でこれを撃破。ここに至って一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還する事となった。正平13年/延文3年(1358年)1月には父・範氏に代わって探題となった一色直氏がなおも挑んできたが武光はこれも撃退し、同年11月には日向国の畠山直顕をも破って、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃した。
※この「菊池氏惣領の継承」の解説は、「菊池武光」の解説の一部です。
「菊池氏惣領の継承」を含む「菊池武光」の記事については、「菊池武光」の概要を参照ください。
- 菊池氏惣領の継承のページへのリンク