苦悩を芸術に昇華
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:14 UTC 版)
同年、師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪した。この出来事の顛末は、田口掬汀による連載記事「絵具皿」で『万朝報』に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまり、しばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年(明治39年)に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦に実力を認められる。1907年(明治40年)、21歳で東京勧業博覧会に『花の蔭』を出品して2等賞、同年秋に開催された第1回文部省美術展覧会(文展)では「もの詣で」で3等賞を受賞した。
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