膠着状態の打開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:23 UTC 版)
「1981年の国際連合事務総長の選出」の記事における「膠着状態の打開」の解説
カークパトリックはこの状況を"a deadlock within a deadlock"(デッドロックの中のデッドロック)と表現した。安保理は事務総長を決めることができなかったが、第三世界の国々は、サリムが辞退しない限り、他の候補者を指名することはなかった。しかしサリムは、ヴァルトハイムが辞退しない限り、自身も辞退しないつもりだった。ヴァルトハイム陣営は、象徴的な拒否権の行使しかしないと思っていた中国に「騙された」と主張した。1971年の選出でヴァルトハイムを破ったが、ソ連の拒否権により選出されなかったカルロス・オルティス・デ・ロサス(スペイン語版)は、「事務総長は3期以上務めるべきではない」と述べた。ヴァルトハイムの支持者からも、「個人的な野心で3期目を目指し、事務総長の威信を傷つけている」と批判された。 アメリカのジーン・カークパトリック大使は、安保理が候補者を指名してはどうかと提案した。候補者が指名された後に辞退しない限り、安保理はその候補者をヴァルトハイムやサリムと一緒に投票することができる。アフリカではすでにサリムの就任を試みて失敗していたため、ラテンアメリカの候補者に注目が集まった。 12月には、ウガンダのオララ・オトゥヌが安保理の持ち回り議長に就任した。オトゥヌはサリムの選出を主導していたが、議長として両候補者に辞退を求めて膠着状態の打開を図った。12月3日、ヴァルトハイムは辞退を表明した。サリムは、アメリカが拒否権を撤回するかどうかを数日待っていたが、12月8日にサリムも立候補を辞退した。6週間に及ぶ膠着状態、前例のない16回の投票を経て、ようやく他の候補者にも門戸が開かれた。
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