脱亜論との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 20:06 UTC 版)
1885年(明治18年)に福澤諭吉が書いたとされる論説『脱亜論』の考え方が「脱亜入欧」の考え方であると指摘されることがあるが、これは表面上も内容上も誤りである。福澤は、確かに欧米の先進文明を吸収すべきであると繰り返し主張しているが、「一身独立して一国独立す」(『学問のすすめ』初編)とも明確に主張している。従って、署名著作・『時事新報』論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない。さらに福澤が「脱亜入欧」という語句と関連付けられるようになったのは第二次世界大戦後の1950年代以降の事である。また、福澤の『脱亜論』は、アジア諸国に対しては、欧米列強に対抗する上で支那・朝鮮などのアジア諸国が明治維新を成し遂げた日本と共同歩調を取れるよう自ら進化し連携してくれる事が望ましいとはしているものの、「近隣の支那・朝鮮でさえ余りにも前近代の体制に固執し続けているため、彼らの進化を待っていては日本が不当に立ち遅れてしまう。もはや待っている訳には行かぬ」という趣旨でのみ「脱亜」を主張しているに過ぎない。
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