肥前のタイ捨流とは? わかりやすく解説

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肥前のタイ捨流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:00 UTC 版)

タイ捨流」の記事における「肥前のタイ捨流」の解説

肥前佐賀県)には丸目蔵人自らが訪れ武雄木島藤左衛門木島右衛門や佐嘉の松平入道窓らに相伝したため肥前ではタイ捨流が盛んとなった鍋島藩第2代藩主鍋島光茂御側頭務めた中野就明は、その刑右衛門孫弟子にあたり、これを宝永7年1710年)に「タイ捨流解紐」を著したまた、葉隠著した山本常朝中野就明の従弟であり、タイ捨流入門していたとされる当時肥前における剣術本流は、タイ捨流から新陰流移っており、就明は「伝流ノ源ヲ失ン事ヲ憂ヒ」と、口伝極意含めてわかりやすい解説書としてまとめた。 その後、肥前のタイ捨流は、武雄多久、佐嘉、吉田など各地広まり中級軽輩武士層において広まっており、幕末頃の佐嘉では木島右衛門伝えたタイ捨流川原小路道場文久の頃に肥前伝わった直心影流水ヶ江道場勢力二分し、『東の直心影流、西のタイ捨流』と呼ばれるほど隆盛していた。また、第10代佐嘉藩主鍋島直正が自らタイ捨流入門している。 肥前のタイ捨流は明治昭和他の地方多く古武道同じようにより途絶えた思われる二度目相伝1995年十三世山北竹任宗家多久市剣道教士七段谷口國雄に伝え、「肥前多久タイ捨流・聖風館」として道場設立し復活するものの、これも相伝者ができず途絶えた。現在は三度目相伝として嬉野市肥前夢街道が、兵法タイ捨流剣術本流である道場龍泉館の山本隆師範から指導受けている。

※この「肥前のタイ捨流」の解説は、「タイ捨流」の解説の一部です。
「肥前のタイ捨流」を含む「タイ捨流」の記事については、「タイ捨流」の概要を参照ください。

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