肥前のタイ捨流
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肥前(佐賀県)には丸目蔵人自らが訪れ、武雄の木島藤左衛門と木島刑右衛門や佐嘉の松平入道雪窓らに相伝したため、肥前ではタイ捨流が盛んとなった。鍋島藩の第2代藩主・鍋島光茂の御側頭を務めた中野就明は、その刑右衛門の孫弟子にあたり、これを宝永7年(1710年)に「タイ捨流解紐」を著した。また、葉隠を著した山本常朝は中野就明の従弟であり、タイ捨流に入門していたとされる。当時、肥前における剣術の本流は、タイ捨流から新陰流に移っており、就明は「伝流ノ源ヲ失ン事ヲ憂ヒ」と、口伝の極意も含めてわかりやすい解説書としてまとめた。 その後、肥前のタイ捨流は、武雄、多久、佐嘉、吉田など各地に広まり、中級・軽輩の武士層において広まっており、幕末頃の佐嘉では木島刑右衛門が伝えたタイ捨流の川原小路道場と文久の頃に肥前に伝わった直心影流の水ヶ江道場が勢力を二分し、『東の直心影流、西のタイ捨流』と呼ばれるほど隆盛していた。また、第10代佐嘉藩主・鍋島直正が自らタイ捨流に入門している。 肥前のタイ捨流は明治~昭和に他の地方の多くの古武道と同じようにより途絶えたと思われる。二度目の相伝は1995年に十三世山北竹任宗家が多久市の剣道教士七段谷口國雄に伝え、「肥前多久タイ捨流・聖風館」として道場を設立し復活するものの、これも相伝者ができず途絶えた。現在は三度目の相伝として嬉野市の肥前夢街道が、兵法タイ捨流剣術の本流である道場龍泉館の山本隆博師範から指導を受けている。
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