紆余曲折の末の契約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/14 16:13 UTC 版)
「オリエント・エクスプレス '88」の記事における「紆余曲折の末の契約」の解説
ところが、この時期にVSOE社の社長が交代することになった。ベンソンがヘッドハンティングにより航空会社の社長に就任することになったためである。技術部長のスキナーは「フジテレビには迷惑をかけない」と言った ものの、実際に契約する段になり、VSOE社の会長であるシャーウッドは、車両保護の観点から「船で運べば安全で確実ではないか」と主張した。また、提示された車両のリース料も非常に高額となった。1987年の年末にシャーウッドが来日した際に、再度フジテレビから交渉したが、結局「VSOE社の提案する内容ではこの企画は実行できない」という結論となった。 やむを得ず、沼田はイントラフルークとの交渉に切り替え、イントラフルークのグラット社長に相談した。グラットは沼田に対して「なぜ真っ先に相談してくれなかったのか」と怒ったという。グラットの対応は早く、1988年1月には正式にオリエント急行の日本運行の実施が決定、同年3月にはフジテレビとイントラフルークの間で正式に契約が結ばれた。
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