紀作良とは? わかりやすく解説

紀作良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:54 UTC 版)

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紀作良
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 不明
死没 延暦18年1月16日799年2月25日
官位 従四位下大学頭
主君 光仁天皇桓武天皇
氏族 紀氏
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紀 作良(き の さくら/つくら)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族官位従四位下大学頭

経歴

若くして大学で学び、経書史書をよく学んだ[1]少判事から式部大丞を経て、宝亀9年(778年従五位下に叙せられる。のち、光仁朝において民部少輔丹波介を歴任。天応元年(781年)の光仁上皇崩御の際には御装束司を務めた。

桓武朝でも、天応2年(782年尾張守次いで伊勢守と引き続き地方官を務める。延暦3年(784年右少弁として京官に復すと、延暦4年(785年大蔵大輔・斎宮長官・兵部大輔、延暦5年(786年)大学頭、延暦6年(787年治部大輔と短期間に多数の官職を務める。またこの間、延暦4年(785年)従五位上に叙せられている。

延暦7年(788年上野守に任ぜられると、のち丹波守と桓武朝半ばは再び地方官を務め、この間の延暦8年(789年正五位下、延暦16年(797年)正五位上と昇進した。のち、従四位下大学頭に至る。延暦18年(799年)正月16日卒去。最終官位は大学頭従四位下。

人物

飾り気がなく真面目な性格で、官人に少しでも過ちがあれば、容赦なく必ず法を以て処分したために、部下に憎まれた。早朝から日暮れまで公務に精励して、老齢になっても怠ることがなかったという[1]

官歴

六国史』による。

脚注

  1. ^ a b 日本後紀』延暦18年1月16日条

参考文献





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