米十郎時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 09:27 UTC 版)
「市川小團次 (4代目)」の記事における「米十郎時代」の解説
1829年(文政12年)または1832年(天保3年)8月市川米十郎を襲名した。金沢・名古屋の興行から大坂の中ウ芝居に出演する。1842年(天保13年)秋、先輩格の俳優に蹴飛ばされ梯子から転落する事件が起る。このため一座を退座し、今に舞台で見返してやると発奮。義太夫狂言の所作をみっちりしこまれ、二代目尾上多見蔵、嵐三津五郎、尾上松録など中ウ芝居の名人上手たちに師事する。とくに多見蔵からはケレンを教えられ彼の芸の財産となった。このころ、『義経千本櫻・四ノ切』で狐忠信をつとめた時、義太夫の伴奏者の三味線の胴から抜け出すケレンで好評を得たが、睾丸を擦り剥いて負傷しばらく休場という逸話が伝わっている。文字通りの身体を張っての演技は周囲に認められ、三代目中村歌右衛門の死後、次の大看板を求める劇場関係者にとって有望な若手と写った。次第に大きな劇場の出演依頼が来るようになり、長い期間の苦労が報われる時がきた。この大坂の米十郎時代が名優小團次の芸を作り出す時期でもあった。
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