筆頭家老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:15 UTC 版)
安政3年(1856年)、家老となる。同時期、実父・広伴も家老を勤め、実弟・蠣崎監三も重臣となっていた。松前崇広は、文久3年(1863年)に寺社奉行、元治元年(1864年)に老中に就任。勘解由は筆頭家老として崇広を支えた。勘解由は、祐筆に任せず自ら事務を行い、記憶力に優れ諸事良く処理し、家老としての評価は高かったが、その専横ぶりは反発も生んだ。 慶応元年(1865年)9月、藩主・崇広が兵庫開港要求事件の責任を問われ老中を罷免・蟄居となり、翌慶応2年(1866年)4月に病没する。崇広襲封時の約束 通り、松前徳広が藩主を継いだ。徳広は文人で尊王派として知られていたが、肺結核かつ重度の痔疾で起きるのもままならないため、同年11月に辞意を漏らし、勘解由らは崇広次男の敦千代(松前隆広)の擁立を画策した。しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となる。
※この「筆頭家老」の解説は、「松前勘解由」の解説の一部です。
「筆頭家老」を含む「松前勘解由」の記事については、「松前勘解由」の概要を参照ください。
筆頭家老と同じ種類の言葉
Weblioに収録されているすべての辞書から筆頭家老を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 筆頭家老のページへのリンク