笹田泰敏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/08 22:35 UTC 版)
ささだ やすとし
笹田 泰敏
|
|
---|---|
生誕 | 1929年3月18日(96歳)![]() |
国籍 | ![]() |
出身校 | 京都大学法学部 |
職業 | 実業家・投資家 |
団体 | 大和証券関係者 |
肩書き | 大和証券専務取締役 NIF代表取締役・初代社長 大和ビジネスツーリスト監査役 医療法人清和会理事長 |
笹田 泰敏(ささだ やすとし、1929年(昭和4年)3月18日[1] - )は、日本の実業家であり、投資家でもある。大和証券の専務取締役を経て[2]、日本インベストメント・ファイナンス(後の大和SMBCキャピタル)初代社長を務め、日本にベンチャーキャピタルを広めた。岡山県出身[1]。
経歴
生い立ち
1929年(昭和4年)岡山県に生れる[1]。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、芸術家の大西茂や国立国際美術館館長となる小倉忠夫がいた。1946年(昭和21年)に同校を卒業する[3]。この後、旧制高校を経て、1949年(昭和24年)京都大学法学部へ入学し、1952年(昭和27年)同校を卒業する[4]。
証券会社の社員として
大和証券時代
京大卒業後、大和証券(現:大和証券グループ本社)へ入社する[5]。事業法人部へ所属し、投資信託受益証券の売買引受を業務として行っていた。1963年(昭和38年)大阪支店の法人部事業法人課長となり[6]、1965年(昭和40年)次長を経て[7]、1969年(昭和43年)8月、39歳のとき、大阪支店法人部長となる[8]。1971年(昭和46年)3月、大阪支店事業法人部長、同年8月、国際部付部長の兼務となり、1972年(昭和47年)11月、笹田が43歳のとき、大和証券締取役に就任し東京勤務となる[7]。
1974年(昭和49年)11月には、大和証券の新任常務として、これまで取締役だった、久保昭二資金部長、斯波佑蔵・北海道東北ブロック長、西村善光大阪副支店長と笹田の四人が同時に昇格した[9]。1979年(昭和54年)には、山内隆博社長の下で、斯波佑蔵と共に笹田は、専務取締役に就任する[10]。2年間、同社の専務を務めた後、1981年(昭和56年)に笹田は、大阪支店長となる。この人事については、顔も広く大阪での法人経験が長い笹田をこの当時、大和証券の影響力が低下していた関西地区の支店長として採用し、関西の法人営業を強化する狙いがあった[11]。
投資ファンド社長に就任後
その後、1982年(昭和57年)8月、大和証券を退社し、日本インベストメント・ファイナンス(NIF)の初代社長へ就任する[12]。まだこの当時、日本では主流ではなかった、ベンチャーキャピタル(VC)投資ファンドの草分け的存在としてNIFが存在したが、この後、ハイリターンを狙ったアグレッシブ投資を行うベンチャーキャピタルの設立が日本で相次ぐことになる[13]。
笹田は、雑誌のインタビューで、起業したての会社において、望ましい経営方法について次のように語っている[14]。
「ベンチャービジネス、またはニュービジネスの場合、創業社長個人の強烈すぎるほどの個性と行動力によって引っ張られているケースが多い。しかし、低成長時代に突入し、産業界のニーズが多様化しているいま、オーナー社長一人の個性で企業を拡大できるのは、その社長の器や業種によっても異なるだろうが、製造業ではせいぜい年商規模で五十億円までであろう。年商五十億円から百億円を突破する規模までワンマン体制を通そうとすると、思わぬ破綻を招くことになりかねない。とりわけ、"技術屋"社長にとっては、管理部門のなかでも経理、財務面での参謀を確保することが絶対的条件だ。」 — 笹田泰敏、ニュービジネス成功のヒント「スキ間」市場をどうつかむか
1986年(昭和61年)には、ソウル市で、韓国最大のVCである韓国技術開発の金昌達社長と業務提携の契約書を交わすなど、海外のVCとも連携していた[15]。1990年(平成2年)1月25日、60歳のとき、笹田は後任の磯田拓郎・アメリカ大和証券会長へ社長職を譲る[16]。これは、大和証券の取締役時代に、後に損失保証が発生し、笹田を含む当時の首脳陣であった、浅尾敏靖や常務の松永晴夫が、損失補填のため引責辞任に追い込まれたためとされている[16]。
社長職引退後、大和ビジネスツーリスト監査役に就任する[17]。この後、笹田は四国で病院を経営していた兄の跡を継いで、香川県観音寺市にある医療法人清和会の病院理事長を2025年(令和7年)8月現在まで務めている[18][19]。
略歴
- 1929年 岡山県に生れる
- 1946年 旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業
- 1949年 旧制高校を卒業
- 1952年3月 京都帝国大学法学部を卒業
- 1952年4月 大和証券へ入社
- 1965年4月 大阪支店法人部次長
- 1969年8月 39歳で大阪支店法人部長
- 1971年3月 大阪支店事業法人部長
- 1971年8月 国際部付部長を兼務
- 1972年11月 43歳で大和証券締取役へ就任
- 1974年11月 45歳で常務取締役へ就任
- 1979年 49歳で専務取締役へ就任
- 1981年 専務を兼務したまま、大阪支店長へ転出
- 1982年8月 53歳で大和証券を退社、NIFの初代社長へ就任
- 1990年1月 60歳でNIFの社長を退任、大和ビジネスツーリスト監査役就任
- 2000年代 - 現在まで医療法人清和会の病院理事長を務める
脚注
- ^ a b c 日本金融名鑑 1983年版 上巻, 日本金融通信社, 1982.9『専務取締役 笹田泰敏(昭4.3.18岡山 27.3京大)』
- ^ 篠田義雄 : 追想録, 大阪商船三井船舶株式会社 編, 1989.4『南五雄さん(当時、弊社副社長)、それに笹田泰敏さん(当時、弊社常務、専務)』
- ^ 高梁高校東京支部 第27号 10頁, 平成27年7月『S21卒 笹田泰敏』
- ^ 京都葵の会-旧京大40年代卒の会-, 京都大学『昭和27年法学部卒』
- ^ 日本金融名鑑 1975年版上巻, 日本金融通信社, 1974年
- ^ ダイヤモンド会社職員録 全上場会社版 1963年版, ダイヤモンド社, 1963『【法人部事業法人課長】笹田泰敏, 昭4岡山, 昭27京大法, 昭27入』
- ^ a b 日本企業要覧 1973年版, 食糧経済新聞社, 1973『笹田泰敏 (中略) 40年4月大阪支店法人部次長, 43年8月大阪支店法人部長, 46年3月大阪支店事業法人部長, 46年8月国際部付部長, 47年8月事業法人部付部長, 47年11月締取役』
- ^ 日本紳士録 第58版別冊附録, 交詢社出版局 編 帝国地方行政学会, 昭和44年『〔大阪支店法人部長〕笹田泰敏昭4岡山,昭27京大法,昭27入』
- ^ 時評 16(12), 時評社, 1974-12
- ^ 財界 29(3), 財界研究所, 1981-02『悲劇の外様会長·山内隆博氏社長の他に、斯波佑蔵、笹田泰敏の二専務がいるが、この二人は五十四年末に専務に昇格しており』
- ^ 日経公社債情報 11月23日(261), 格付投資情報センター, 1981-11
- ^ 産業と経済 37(3), プリントワン, 1983-02『また、笹田泰敏専務も日本インベストメント·ファイナンス社長に就任している。』
- ^ 近代セールス 28(16)(456), 近代セールス社, 1983-08『時価発行での調達がベンチャーキャピタルに火をつけた 笹田泰敏』
- ^ ニュービジネス成功のヒント : 「スキ間」市場をどうつかむか, 西田忠正 著 PHP研究所, 1986.9
- ^ 金融財政 10月20日(7962), 時事通信社 編, 1986-10
- ^ a b 1990.01.09 中日新聞社 朝刊 8頁, 『経済面大和証券子会社笹田社長が退任「損失保証」で引責か』
- ^ 財界 夏季第2特大43(20), 財界研究所, 1995-08
- ^ 偕行 : 陸修偕行社機関誌 2003年9月号, 陸修偕行社, 2003-09『先の話、笹田泰敏君が兄さんの病院の跡を継いで、四国は観音寺の病院理事長になり』
- ^ “医療法人清和会”. BIZMAPS. 2025年8月8日閲覧。
- 笹田泰敏のページへのリンク