第5の現代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 08:01 UTC 版)
同会議に先立つ12月5日、「民主の壁」に「金生」という署名で「第五の現代化-民主およびその他」と題する壁新聞が張り出された。中国共産党による30年間の独裁と、自由も民主的でもない現状を見つめるよう訴えたものだった。この「金生」が魏京生であった。当時の共産党の標語「四つの近代化」に対し、第五の近代化(政治の近代化=民主化)を提唱した。 「民主の壁」に参加していた市民らは「四五論壇」「民主の壁」「群衆参考消息」といった自費雑誌を発行していた。魏京生も1979年1月8日、雑誌『探索』を編集発刊し、さらに厳家祺が同1979年1月に発刊した雑誌に「北京の春」と名付けた。これは1968年の「プラハの春」にちなんだもので、以後、1978年秋以降盛り上がった「民主の壁」の運動は「北京の春」と呼ばれる。 また、1979年1月18日から4月3日まで開かれた「理論会議(理論工作務虚会)」で、中央政治局委員の胡耀邦は、それまでタブーとされてきた人々や文芸作品の名誉回復を図っており、こうした動向は、民主化運動を盛り上げた。
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