第1章 現量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 02:29 UTC 版)
知識には、直接知覚(現量)と推論論証(比量)の2つの手段しかない(2量説)ことが宣言される。これは、知識の確実性を論究される対象が、自相(具象:sva-lakṣaṇa)と共相(抽象:sāmānya-lakṣaṇa)の2つしかないから、その判断基準(量)もまた2つしかあり得ない、とするのである。 陳那は、ここで古来から仏陀などの言葉であるから正しいとする判断基準(聖教量)を否定するのである。 現量とは、分別(kalpanā)を離れた知識である。分別とは、名/言葉(nāma)と種/普遍(jāti)等と相応することである。よって、この知識は自相を対象(境:viṣaya)とするものであり、言葉にすることはできず、感覚認識されたものはユニークである。そして、この直接知覚の確実性を保証する理論として自己認識(svasaṃvedana)の理論を導入する。 この章は、前半がこうした陳那の知覚説の説明に当てられ、後半が先行する仏教認識論(世親の作と見なされる「論軌」)、バラモン系哲学諸派(ニヤーヤ。サーンキヤ、ミーマーンサー、ヴァイシェーシカ、チャールヴァーカなど)の批判に当てられている。以下、批判している対象に若干の相違があるものの2〜4章でも同様な構成がなされている。
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