竹本長鮮とは? わかりやすく解説

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竹本長鮮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 12:00 UTC 版)

 
竹本 長鮮
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 不明
死没 享保7年7月12日1722年8月23日)(58歳没)
改名 夆之助(幼名)→長直(初名)→長鮮→字安(法名)
別名 源右衛門、次左衛門
墓所 東海寺塔頭長松院(東京都品川区
官位 従五位下土佐守
幕府 江戸幕府三丸用人新番頭
主君 徳川綱吉家宣?→家継?→吉宗
氏族 摂津源氏馬場氏支流高田氏竹本氏
父母 父:竹本養意
森美作守家臣・原豊前守某の娘

長基、間宮久澄室、長宥、女子

養子:稲葉正房室(山越氏の娘)
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竹本 長鮮(たけもと ながあきら)は、江戸時代中期の旗本。三丸(桂昌院)方用人新番頭

出自

南北朝時代武将・高田義遠(新田左中将義貞十六騎の一人)の次男・高田又次郎(竹本政季)[注釈 1]の後裔。(家紋:桔梗、左三巴)

寛文元年(1661年)、徳川綱吉館林藩主となると、上野国山田郡桐生郷が館林藩の領地となる。館林徳川家医師である竹本養意(竹本長鮮の父)は、同地に領地を賜り後に移住する。

生涯

元禄元年(1688年)頃、竹本養意の没後、子の竹本次左衛門長直(後の竹本土佐守長鮮)が、父の住居跡に養泉寺[注釈 2]群馬県桐生市)を建立した。寺号は竹本養意(戒名:寂照院殿来室養意居士)および、その妻(戒名:瑞泉院殿縁誉心光大姉)両名の戒名によるものと伝わる。また、竹本政季(竹本氏の祖)の居城・竹本城の近くにある豊川稲荷の分身を、山門脇に安置している[1]

元禄9年(1696年)8月23日、三丸(桂昌院)方用人となり、 下野国都賀郡に350石の領地を賜る。後に下野国都賀郡と武蔵国葛飾郡に200石を加賜され、計550石を知行

元禄15年(1702年)1月26日、従五位下・土佐守に叙任。

宝永元年(1704年)1月21日、下野国都賀郡の領地が加増され、計1500石を知行。

享保2年(1717年)5月11日、徳川吉宗亀戸隅田川辺にて、将軍による鷹狩を復活させた。 憩息所となった木母寺を、新番頭の竹本土佐守長鮮は、先手頭の須田助十郎盛員などと共に警護した[2]

脚注

注釈

  1. ^ 源光円(光圓)の六代子孫
  2. ^ 柄杓山城桐生氏を滅亡させて、桐生郷を領地としていた新田金山城由良氏の家臣・金谷因幡守が建立した水竹庵が起源。(その後、豊臣秀吉小田原征伐の戦後処理で、由良氏は常陸国河内郡河内郷牛久村に領地替えとなり移住。)由良氏が桐生郷を去った後も、近くにある東勝寺(臨済宗)の庵室として存続していたが、竹本長鮮が養泉寺(曹洞宗)を建立。

出典

  1. ^ 『養泉寺寺伝』
  2. ^ 根崎光男「享保期における放鷹制度の復活と鷹場環境保全体制」『人間環境論集』法政大学人間環境学会 2007年 4頁

参考文献

関連項目




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