空谷事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/20 23:02 UTC 版)
1953年、松山商業でこの年の夏の甲子園優勝投手となった空谷はプロからも高評価された。この時代は後年のようなドラフト制度がなく、また空谷に対して10球団が獲得に乗り出したためにどの球団に入団するのか注目された。しかし、空谷自身は「プロの球団ならどこに入団してもいい」という姿勢であったことから、プロ側と空谷側が話し合った結果、当時プロでは異例となる入札制により入団先を決めることとなった(現行のポスティングシステムに近い)。 これで各球団は空谷に他球団がいくらの金額を提示するのかで、情報の探りあいとなった。そして、中日が当時としては破格の金額となる200万円を提示した。しかし、直前に南海ホークスが同額の200万を提示する情報が伝わったため、中日は10万上乗せの210万円を提示し、空谷側も同意して中日への入団が決定となった。 しかし、この空谷入団に際しての一連の出来事に関して、松山商業側から高野連に対して何の報告も無かった。これを知った高野連は激怒し、『(高校球児の)進路を決定するに際して、入札制は不健全である』として、松山商業に対して1年間の公式試合禁止処分を下した。
※この「空谷事件」の解説は、「児玉泰」の解説の一部です。
「空谷事件」を含む「児玉泰」の記事については、「児玉泰」の概要を参照ください。
- 空谷事件のページへのリンク