福島藩との領地替えが行われた理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:14 UTC 版)
「寛政一揆」の記事における「福島藩との領地替えが行われた理由」の解説
福島藩主板倉氏は領地の収入不足を理由に、数十年前より幕府老中に対して、地味と領民の風紀の悪い伊達郡の所領の領地替えを願い出ており、長年の努力が実ってついに寛政2年8月、奥州の領地収入を5ヶ年で平均して幕府へ提出するよう老中松平定信より指示を受けた。このような折り、同年末に刈谷藩で一揆が発生したのだった。また、表面上は領地替えであったが、刈谷藩にとっては実質的に減封であり、領地替え以前と比較して、毎年5,595俵の減収となり、財政難に拍車がかかることになった。反対に実質的加増となった福島藩はこの領地替えにより財政の危機を乗り越えた。その後、刈谷藩の領地にも若干の修正はあったが、大勢に変化はなかった。 寛政4年に福島藩板倉氏の領地となった諸村(いずれも碧海郡)。 堤村の一部、駒場村、小垣江村、榎前村、和泉村、福釜村、高棚村、箕輪村、篠目村、中村、野田村、半城土村、重原村、八ツ田村、牛田村、来迎寺村、今村、里村、吉浜村、高浜村、高取村。福島藩三河国飛地となった上記の村々は新たに設けられた重原陣屋によって治められた。 天保9年(1838年)時点の刈谷藩城付領(いずれも碧海郡) 刈谷町、元刈谷村、熊村、高津波村、小山村、築地村、一ツ木、泉田村、今岡村、東境村、井ヶ谷村の一部、池鯉鮒町、八橋村、堤村の一部、吉浜村、高浜村、高取村の一部、高棚村の一部。
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