神主職継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 10:01 UTC 版)
大永4年(1524)10月、居城の桜尾城を攻められていた広就の兄友田興藤が、大内氏との講和に応じた。これにより興藤が神主職を引退し、興藤の兄の子・藤太郎が神主となった。しかし享禄元年(1528年)8月頃に藤太郎が病没したため、興藤によって広就が新たな神主として擁立された。8月20日、大内氏重臣・陶興房の取り成しで、帰国直前の大内義興と対面した。 享禄元年(1528年)12月24日、平良庄鵼原(にえはら)名および講丸の内堂垣内下三反を大願寺に安堵している。これらの地は、以前兄興藤が厳島社や速田社の造営の為に、同寺に預け置き、あるいは寄進したものだった。厳島社の神官・野坂房顕は、当時は興藤が厳島神社領を思うままに治めていたと「覚書」に記している。 享禄元年(1528年)12月20日、周防国山口では大内義興が死去し、義隆が跡を継いだ。広就は陶興房からの要請を受け、代替わりの挨拶の為に山口へ下向。享禄3年(1530年)12月13日に厳島を出発し、同月28日に桜尾城に帰城した。
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