神主世襲制と吉田派と白川派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
「石徹白騒動」の記事における「神主世襲制と吉田派と白川派」の解説
石徹白での騒動が激化する中で争点となったのが、神主である石徹白豊前が世襲神主であるか否かという点と、石徹白は吉田家の支配であったのかそれとも白川家の支配であったのかという点であった。騒動の張本人である石徹白豊前は世襲神主であることを主張するとともに、ことあるごとに吉田家の権威を利用して己の主張を貫こうと試みたが、反豊前派は神主はあくまで合議の上で決められるものであり、世襲制ではないと主張し、また石徹白は吉田家ではなく白川家の支配にあると主張した。 宝暦8年(1758年)12月に言い渡された評定所の判決では、この二点に関しては石徹白豊前の主張が認められ、石徹白豊前は世襲神主の地位にあり石徹白は吉田家支配にあると裁定された。しかし吉田家支配であったか白川家支配であったかについては、石徹白騒動での反豊前派の主張が、吉田家の権威を笠に着る石徹白豊前に対抗する方便ばかりであったとは考えにくく、また古文書を分析した結果からも、石徹白豊前を出した神主家が騒動以前から吉田家の門人となっていたと考えられるものの、社人の中には白川家の門人となっていた例も確認でき、石徹白騒動以前は吉田家の門人も白川家の門人もいたものと見られている。
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