神主家滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 10:01 UTC 版)
広就は栗栖氏に伴われて桜尾城を脱出。五日市城に落ち延び、城内より降ろされた綱をつたって入城した。しかし6日には五日市城も大内軍に包囲されたため、8日に城主・宍戸弥七郎によって切腹させられた。強弓使いであった広就は、最期に大内軍の陣地に矢を3本放った後、弓を切り折り、腹を切ったという。 首は弘中隆包に渡され、9日に七尾の陣で大内義隆や飯田興秀らによる首実検が行われた。同日、桜尾城にて大内軍は勝ち鬨を上げた。ここに安芸国佐西郡の支配者としての厳島神主家は滅亡した。
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