真和志村民による収骨活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 02:49 UTC 版)
「魂魄の塔」の記事における「真和志村民による収骨活動」の解説
終戦後の1946(昭和21)年1月、島尻郡真和志村の住民は米軍の都合から帰村を認められずに摩文仁村(まぶにそん、現在の糸満市)米須に移住を命じられた。テント小屋での仮住まいながらも金城和信(きんじょう・わしん)を村長として戦後復興が始まったが、一帯は戦没者の遺骨が「道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた」状態であり、人々の感情はもとより復興作業の上でもそのまま遺骨を放置することは望ましいことではなかった。米軍は「敵である日本兵を祀り称える」動きにならないか警戒して遺骨の収集に難色をしめしたが、金城が折衝を重ねて米軍から遺骨収集の許可を貰った。村では収骨隊を組織し、野ざらしになっていた遺骨の収集を始めた。遺骨収集に参加した当時の高校生の証言によると、「勉強はいつでも出来るから天気のよい日は収骨作業に協力し、晩6時から授業して欲しい」と望んで参加したという。とはいえ、ミイラ化した状態の遺体、折り重なるように見つかった大人や子供の遺骨があり、激戦地で逃げ場を失った住民の悲惨な最後を留めていた。ミイラ化した遺体は「グブリーサビラ(失礼致します)」と合掌して手足を崩し、一番上に頭蓋骨を乗せて「ウンチケーサビラ(ご案内致します)」と米軍の担架で運び出したという。
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