百花斉放百家争鳴と反右派闘争
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「胡風」の記事における「百花斉放百家争鳴と反右派闘争」の解説
1956年5月2日、政府は百花斉放百家争鳴と呼ばれる運動を開始し、言論統制を少し緩めた。政府は、社会主義を賛美する言論が行われることを期待した。 ところが政府の意に反して、胡風を擁護する意見も続出した。北京大学の学生林希翎は演説の中で胡風問題について触れ、彼らは反革命分子ではないと堂々と主張した。また、かつて胡風反党集団とされた何満子や牛漢、曾卓、王皓、化鉄らは自分らは決して反革命分子ではないとする文を発表した。 結局6月8日毛沢東は、百花斉放百家争鳴の方針を事実上撤回を指示、反右派闘争と呼ばれる言論弾圧を開始した。胡風問題は特に重視され、彼について言及したものは賛成派、反対派を問わずほとんどが逮捕された。舒蕪はかつて胡風を告発したために胡風問題の時は事なきを得ていたが、反右派闘争では胡風の一味と見なされて労働改造に回された。呉祖光もまた胡風を告発していたが、右派と見なされた。陳涌は胡風派の阿壠を批判していたが、「胡風を批判する一方で、胡風の影響を受けた」として右派と見なされた。かつて釈放されていた胡風派もまた罪に問われ、投獄されたり労働改造に従事させられたりした。さらに1965年から始まった文化大革命で胡風派はもう一度反革命集団のレッテルを貼られた。
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