白鳥騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:55 UTC 版)
白鳥は意見を異にする同僚・上司、政治家に対しても極めて攻撃的であり、犬養内閣での上司芳澤謙吉外相とは犬猿の仲であった。義兄の出淵勝次にも批判的で、省内で出淵に対する反感を醸成する黒幕ともなっていた。特に谷正之亜細亜局長とは考査部設立問題で激しく対立し、1932年に就任した有田八郎外務次官とも対立するようになった。有田は白鳥と谷を海外赴任させて調停する案を考えたが、白鳥は省内の革新派の影響力を背景に、有田にも海外赴任させるよう内田康哉外相に迫った。内田は白鳥の圧力に負け、有田にも海外赴任を求めたが、喧嘩両成敗の形となることに憤った有田は次官を辞任した。 1933年(昭和8年)6月、谷は満州国大使館参事官に、白鳥はスウェーデン公使(デンマーク・フィンランド・ノルウェー兼摂)としてストックホルムに赴任することになった。しかし白鳥はこれに抵抗し、赴任を渋ったために重光葵外務次官が免職すると威嚇する事態となった。結局白鳥がストックホルムに向けて出港したのは9月21日になってからであった。その後考査部問題も重光の裁定によって純然たる調査機関としての調査部の設立ということで落ち着いた。白鳥の海外出国の後、国内にあって革新派の主導的立場にあったのは栗原正調査部長らであり、重光らに対して激しい批判を行っていた。
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