田庄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:51 UTC 版)
陳朝の王侯貴族には采邑(タイアプ、所領)が与えられ、田庄(荘園)の所有が認められていた。1266年に王侯貴族に田庄の所有が認められ、田庄の開発のために流民たちが奴婢としてかき集められる。田庄で労務に従事する農奴(ノンノー)、奴婢(ノーテイ)は地主の下で働く借田農民よりも酷使され、農奴、奴婢の子も主人の奴婢とされた。また、田庄では占奴というチャンパ人(チャム族)の奴隷も使役されていた。陳朝末期には各地で農民や奴婢の反乱が発生し、1344年の呉陛の反乱が鎮圧された後にも、以下に挙げる蜂起が発生した。 1379年:阮清(グエン・タイン)、阮忌(グエン・キ)の反乱。両者は王を称した。 1390年代初頭:山西(ソンタイ、現在のハノイ市)で僧侶の范師温(ベトナム語版)(ファム・ス・オン)が蜂起。反乱軍は昇龍を一時的に占拠した。 1399年:山西で阮汝蓋(グエン・ニュー・カイ)が蜂起。1400年に鎮圧される。 また、王侯貴族以外に寺社も信者からの寄進を受けて「三宝田」「三宝奴」という荘園、私人を有していた。
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