生い立ち - 新聞記者としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:40 UTC 版)
「アンナ・ポリトコフスカヤ」の記事における「生い立ち - 新聞記者としての活動」の解説
1958年、国際連合で外交官を務めていたウクライナ人の両親のあいだに、アンナ・マゼーパとしてニューヨークに生まれる。モスクワで育ち、1980年にモスクワ大学ジャーナリズム学部を卒業する。学位論文はMarina Tsvetaevaの詩についてであった。ポリトコフスカヤはアメリカ合衆国国民であり、ロシア国民でもあった。大学卒業後の1982年、イズベスチヤ紙に入社し、ヴォズドゥーシュヌイ・トランスポルト(航空輸送)紙、創作団体「エスカルト」、出版社「パリテート」、メガロポリス・エクスプレス紙の評論員を経て、Yegor Yakovlev(1994年 - 1999年)の指導のもとで、オープシチャヤ・ガゼータ(総合新聞)紙の副編集長、同紙のチレズヴィチャーイナヤ・プロイスシェーストヴィヤ(緊急事態)部の部長として1993年まで記者として勤務する。 1999年6月、ノーヴァヤ・ガゼータ紙に移り、隔週ごとにノーヴァヤ・ガゼータ・オンラインニュース版での寄稿欄を担当していた。同年からチェチェン共和国での取材を開始し、第二次チェチェン戦争の報道に当たる。『プーチニズム 報道されないロシアの現実』(Putin's Russia) をはじめ、プーチン政権とロシアでの生活について、またチェチェン紛争についての書籍をロシア国外で出版し、高く評価された。一方で国内では、ポリトコフスカヤとの交友関係を疑われることを恐れたクレムリンの役人が出席する記者会見や会合の場には招かれない、と本人が海外の媒体に寄せるために書いた記事で述べている。
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