王朝の復活・再びの全盛期へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:19 UTC 版)
「アシュラフ・バルスバーイ」の記事における「王朝の復活・再びの全盛期へ」の解説
この頃のマムルーク朝では内紛が頻発したため、ティムール朝やキプロス王国など周辺諸国からたびたび侵入を受けていた。バルスバーイは王朝の勢威を回復するために積極的な対外進出を行なう。 1425年には当時イエメンを支配していたラスール朝を攻撃し、ヒジャーズ地方を奪取した。 キプロス王国では、この頃に内紛が起こって衰退の兆しがあったため、1426年にバルスバーイは逆にキプロスに侵攻して王国を屈服させ、属国とした。ティムール朝に対しても貢納の拒否や使者の追い返しなど強気の姿勢で臨み、ティムール朝やその友好国である白羊朝、さらにはその支援を受けて復権を目指すジャーニー・ベイらと対立した。 一方で内政では西欧諸国と盛んに友好を求め、当時西欧で重視されていた砂糖や香辛料、絹織物などを専売して財政の再建を試み、一時的とはいえこの政策も成功した。 1437年にはティムール朝の支援を受けた白羊朝とジャーニー・ベイの連合軍と戦い、これに大勝した。
※この「王朝の復活・再びの全盛期へ」の解説は、「アシュラフ・バルスバーイ」の解説の一部です。
「王朝の復活・再びの全盛期へ」を含む「アシュラフ・バルスバーイ」の記事については、「アシュラフ・バルスバーイ」の概要を参照ください。
- 王朝の復活再びの全盛期へのページへのリンク