物理・数学への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 01:38 UTC 版)
1974年以降、菅野は物理と数学への関心を急速に強めた。この年、関西学院大学理学部の聴講生となり、本格的に物理と数学を学び始める。その動機は、自然界の様々な現象に潜む法則性への興味であり、加えて、数式の展開にリズミカルな音楽性を感じ取っていたともされている。《マックスウェル光の電磁波説》(1974-75年、芦屋市立美術博物館蔵)以降、《ドップラー効果》(1975-76年、京都国立近代美術館蔵)、《黒体輻射》(1975-76年)、《ランジュバン方程式》(1976年、京都国立近代美術館蔵)など、講義でインスピレーションを得た事柄を作品のタイトルに選ぶことが増えていった。1980年代に入ると素粒子に注目し、その後は論文「いたるところ微分不可能な関数族のみたす方程式」に触発されて、同タイトルの作品を複数制作(《いたるところ微分不可能な関数族のみたす方程式》1984-85年、国立国際美術館蔵)。 1988年6月1日、くも膜下出血のため54歳で急逝した。
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