演劇改良運動と川上音二郎による新劇場建設計画
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1893年(明治26年)1月、西園寺公望と金子堅太郎の後援を受け、川上音二郎はフランス、パリに向けて出発した。川上のフランス行きは短期間で終わったが、パリの劇場で演劇を見た川上はまず西洋式の新しい劇場建設をもくろんだ。まず1893年9月、新劇場の建設を始めたが、途中で建設場所が変更となり、12月1日に神田三崎町に新劇場の建設許可を得た。 川上音二郎は、これまでの日本の劇場ではスタンダードであった升席中心の劇場を変え、観客本位の舞台が見やすい洋式の劇場を造ろうとした。升席中心の劇場は基本的には通路がなく、混雑時には観劇者を飛び越えるようにして座席まで向かわざるを得なかった。そして観劇中に他の観客が舞台を見る邪魔となることが多く、ひどい場合にはタバコの灰を落とすなどして隣の観客に迷惑をかけてしまうことも少なくなかった。そこでまず観客席に広い通路を確保することにした。 新しい洋式の劇場には新しい演目が期待される。川上音二郎は「中流以上の嗜好に叶うような高尚」かつ「演劇を志した当初の書生芝居気質」を失っていないような演劇を演じたいとしていた。川上が開設しようとした劇場はそのような新しいタイプの劇、いわゆる新派劇の拠点となる。
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