渇愛の滅尽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 16:37 UTC 版)
四諦では渇愛の滅尽が可能であるとしている。初転法輪においては以下が述べられている。 比丘たちよ、苦を終止するための諦が存在する。それはこの渇愛の完全な消去と終止である。この停止と放棄により、解脱が手に入るのである。 渇愛の滅尽は八正道によって行うことができる。上座部仏教では、無常(anicca)と無我(anattan)についての真の洞察を得ることで滅尽が可能だとしている。 奔流する渇愛の流れを、完全に枯渇させ、断ちきった修行僧は、「今世」も「来世」もともに捨て去る。──蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。 —スッタニパータ 1.3 ケビン・トレイナーによれば、仏教による「観」の修行は、無常、苦、無我の三相への理解を伴う、正念の獲得に焦点を当てたものであるという。無我という現実への理解は、「魂がなければ、執着の基盤はない」として、無執著を促すのだという。さらにトレイナーによれば、ひとたび無我のことわりを理解し認めると、もはや欲望がなくなる。つまり渇愛が滅尽するのであるという。
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