清水坂、ふじ大山道の追分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:45 UTC 版)
志村の一里塚を後にしてさらに進むと、中山道で最初の難所とされた急勾配である清水坂に入り、間もなくして相模大山へ向かうふじ大山道(明治期以降は「富士街道」と称)との追分に差し掛かる。この坂道は左斜めに大きく湾曲していて、中山道中で唯一右手に富士山を望める名所として知られ、「右富士」と呼ばれていた。『江戸名所図会』にもその記述が見える。また、「清水坂」の名はこのあたり一帯が湧き水に恵まれていることにちなんだものであるとされている。他にも古く戦国時代初期の頃には志村城を拠点に勢力を張った千葉信胤(千葉隠岐守信胤)にちなみ「隠岐殿坂」とも呼ばれ、のちには、地蔵尊があったことにより「地蔵坂」とも呼ばれていた。清水坂を過ぎ、旧・中山道(国道17号)と東京都道311号環状八号線(環八通り)が交差する現在の志村坂下交差点近くには、当時立場(たてば)が設けられていて、立場茶屋のほか、志村名主・大野藤左衛門の屋敷も建っていたという(志村の立場)。茶屋は平時に休憩所として利用されたものであるが、屋敷のほうは、荒川の戸田の渡しが大水で川留めされた際の控え場所として重要な施設であった。立場は役目を終えた後も長くその面影を留めていたが、都電志村線の開通、周辺の工業地帯化・住宅地化、環八通りの整備計画などにより、昭和30年(1955年)頃に姿を消した。
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