河床低下と洗掘の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:32 UTC 版)
「富士川橋梁 (東海道本線)」の記事における「河床低下と洗掘の問題」の解説
富士川は急流であり、大量の土砂を流して下流部に堆積させていたが、大正時代頃から河川改修が進んだことと、第二次世界大戦後に砂利採集が無制限に行われたことの影響で、河床の低下が進んだ。1979年(昭和54年)時点では、1889年当初の架橋時に比べて橋梁地点で5メートル程度河床が低下しており、局部的な洗掘に至っては12メートルにも達している状況であった。こうした河床低下と洗掘への対策として、1935年(昭和10年)には木工沈床が第1橋脚と第2橋脚付近に施工され、さらに第二次世界大戦後も引き続き木工沈床が施工された。1967年(昭和42年)ころからはさらに本格的に根固めの対策が開始され、ホロスケアーやコーケンブロックと呼ばれるコンクリートブロックを投入した河床保護対策が実施されていた。さらに1982年(昭和57年)時点で、下り線橋梁は老朽取り替えの計画を開始している段階であった。
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