池上家と新田開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 09:41 UTC 版)
大師河原村一帯の開発に大きく寄与したのは、世襲名主の池上家であった。 池上家の祖には池上本門寺と関わりの深い宗仲がおり、宗仲から数えて二十代目の池上幸種が大師河原村一帯の開発に着手した。小田原北条氏に仕えていた池上家であったが、幸種は家康に仕えず農産業に従事することを選んだ。小泉次太夫吉次が二ヶ領用水を完成させる1614年(慶長14年)の前年に他界するまで、彼は自費で多摩川河口の萱野を開発した。 幸種の息子、幸広は父の遺志を継ぎ、1625年(寛永2年)から大師河原に隣接する海辺の寄州100町歩を開発し、これが後の稲荷新田村となった。稲荷新田村は後の1702年(元禄15年)には1450石の石高となり、川崎市域で最大の石高を持つ村に発展した。幸広は、「大師河原の酒合戦」(慶安2年に開催された酒合戦)に登場する「大蛇丸底深」本人であり、酒豪で知られた。 幸広から数えて4代目にあたる池上幸豊は、1746年(延享3年)から多摩川河口の海辺の新田開発を開始し、1761年(宝暦11年)に耕地面積14町歩の池上新田を完成させた。池上新田の耕地面積は小さく、さらに移住者も家数5軒と少なかったが、海を埋め立てる方法は18世紀半ばの当時としては画期的であった。その後幕府は幸豊の技術と知識の水準の高さを評価し、新たな埋め立て予定地を選ぶよう命じたが、これは実現しなかった。
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