残存し続けた外送理論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:58 UTC 版)
アラビア語圏では、イブン・ハイサムやイブン・スィーナー以降も視線の理論は根強く残った。欧州においては、ロジャー・ベーコンやウィテロなどイブン・ハイサム流の「遠近法論者」(英:perspectivist)の理論はいち早く広まったが、同時に視線論と対立するものとは見做されず、共存していた。これには、射線の向かう方向以外、どちらの理論でも決定的な違いの出ない場合が多いという事情も手伝っていた。それゆえ、光の流入で視覚を理解していても、説明の簡単化のために視線を持ち出すこともあった。ガリレオ『星界の報告』13-14の望遠鏡の説明はその一例である。また、16世紀終わりに至るまで、ガレノス派の医師たちは、プネウマ的な外送理論に多かれ少なかれ影響を受けた。1525年のガレノス『プラトンとヒッパルコスの学説』のラテン語訳は、外送理論が今一度強くなるきっかけになった。 夜行性の動物が眼から光を出すとの説は16-17世紀まで残る。
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