死に損ね左之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
左之助に関する有名なエピソードとして、松山で若党をしていた頃上官と喧嘩して「腹切る作法も知らぬ下司野郎」と罵られ、実際に腹を切ってみせたという話があるが、この話は多くの創作が確認できる子母澤寛の作品・新選組物語にのみ確認できるエピソードであり、事実ではないと思われる。 しかし切腹未遂をしたことがあることは事実なようで、その傷跡を妻であった菅原マサが目撃している。マサが左之助に傷跡について尋ねると、「女や子供にゃわからんことだ」と言って詳しい話はしなかったようだが、何でも国許を出るときに駕籠の中で切腹したらしい。しかし駕籠の中で切腹というのは状況的にも考えにくい話で、マサの談話には何かしらの誤植があったか、マサの記憶違いであったか、そもそも左之助がマサに事実を伝えていなかった可能性が考えられる。 ちなみに、これを元に家紋を○に切腹傷の一文字を入れた形にしてしまったという逸話も有名だが、切腹傷にちなんで家紋を変えたというのは全く根拠がなく、最初からその家紋が原田家の家紋であった可能性を吟味できていない。
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