歌枕としての「夢山」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:45 UTC 版)
「愛宕山 (甲府市)」の記事における「歌枕としての「夢山」」の解説
「夢山」は甲斐の歌枕として、古くから幾つかの和歌に詠まれた。元禄5年(1692年)に有賀長伯が各地の歌枕を集めた『歌枕秋の寝覚』では、例歌として『夫木和歌抄』に収録されるよみ人しらずの歌「都人おほつかなしや夢山をみるかひありて行かへるらん」を挙げており、「かひ(甲斐)」を掛詞として用いていることから甲斐の歌枕と認識していたと考えられている。「夢山」は平安期の歌書では『能因歌枕』に唯一見られ、勅撰集に「夢山」を読んだ歌は見られない。 江戸後期の『甲斐国志』では『夫木和歌抄』と後述の甲斐八景の和歌のほか、織田氏家臣の細川幽斎(玄旨)が読んだ歌の三首を記載している。『東国陣道記』によれば、幽斎は天正18年(1590年)7月15日に小田原合戦から病を理由に帰郷する際に甲斐国を訪れており、夢山に関して「(夢の山宗寿さしきより見えければ、)頼むその名とはしらすや旅まくらあそひてかへる夢の山風」と読んでいる。 江戸時代中期の享保年間には甲府藩主・柳沢吉里により「甲府八景和歌」が定められた。これは甲府近郊の八景を同時代の公家が詠んだ和歌で、彼らは甲斐を訪れておらず実景を詠んではいないが、中院通躬(なかのいん みちみ)が「夢山春曙」として「きのふまでめなれし雪は夢の山ゆめとそ霞む春の曙」と詠んだ。 『秋の寝覚』では夢山は「景物なし」と記しており、夢山を読んだ和歌にも固有のイメージが確立していないことが指摘される。
※この「歌枕としての「夢山」」の解説は、「愛宕山 (甲府市)」の解説の一部です。
「歌枕としての「夢山」」を含む「愛宕山 (甲府市)」の記事については、「愛宕山 (甲府市)」の概要を参照ください。
- 歌枕としての「夢山」のページへのリンク