楽譜発見
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須賀田の死後、彼の名は音楽界から完全に忘れ去られた。1994年刊行の「日本の管弦楽作品表」(楢崎洋子・編著/日本交響楽振興財団・刊)には、須賀田の名前と主要作品・演奏歴等が詳しく記載されていたが楽譜の所在は不明で、行進曲「新中国」、「台湾舞踏曲」、序曲「万民翼賛」、「サラセン舞曲」など数曲の吹奏楽曲がNHKアーカイブスで確認されたのみであった。そうした状況の中、須賀田終焉の地・田沼町では「ご飯の歌」「曼珠沙華」などの歌曲がずっと歌い継がれていた。1997年(平成9年)、田沼町女声コーラス15周年コンサートの際、同コーラス代表・慶野日出子は須賀田の親族に、こう問いかけた。 もっと他に須賀田先生が作曲された、私たちが歌えるような曲はないでしょうか? 当時須賀田が住んでいた住居はすでに無く、古びた蔵が残されているのみであった。「あの蔵に、先生の譜面が納められているはず」須賀田から直接レッスンを受けた元田沼小学校教師・尾花陽子の証言を受けて、親族は蔵の調査を約束した。1999年5月、蔵の最も奥から黒い革を張った大きなトランクが発見された。調査に立ち会った須賀田の姪子・黒澤雄太は、その時の様子を次のように記している。 トランクを開けた瞬間、今まで闇の中で熟成されてきた須賀田礒太郎という名の作曲家の思いのたけが、50年の時を超えて大空に舞いあがっていった。 トランクからは25曲の管弦楽曲をはじめ室内楽曲、歌曲、吹奏楽曲からピアノのための小品、童謡・シャンソン、オペレッタにいたるまで、多種多様なジャンルの楽譜の他に、音楽会のポスター、新聞記事、雑誌など約50点。須賀田がその生涯をかけて取り組んだ仕事の、ほぼ全てが納められていた。
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