柏戸村右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 08:56 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 柏戸 村右衛門 | |||
本名 | 出井 清次郎 | |||
生年月日 | 1738年 | |||
没年月日 | 1796年 | |||
出身 | 武蔵国(現:埼玉県) | |||
所属部屋 | 伊勢ノ海部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 前頭3枚目 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1759年3月場所 | |||
入幕 | 1776年1月場所 | |||
引退 | 1781年10月場所 | |||
引退後 | 年寄・柏戸→伊勢ノ海 | |||
備考 | ||||
2025年7月6日現在 |
柏戸 村右衛門(かしわど むらえもん、元文3年(1738年) - 寛政8年(1796年))は、武蔵国(現在の埼玉県)出身の元大相撲力士。
来歴
現在の埼玉県加須市北川辺町出身。
初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。宝暦9年(1759年)3月場所の五段目(現在の序ノ口に相当)が番付初見。大半は二段(現在の幕下に相当)の地位にあり、途中備前藩主池田家の抱えとなり、三千ノ川強右衛門を名乗ったこともある。初代没後の安永5年(1776年)1月場所に38歳にして新入幕を果たした。
安永9年(1780年)10月場所以降は既に二枚鑑札となっており、天明元年(1781年)には現役のまま勧進元をつとめる等、初代、2代伊勢ノ海(関ノ戸億右エ門)と同様、興業的手腕や事務的能力を発揮。同年10月限り、数え年44歳で引退、年寄「柏戸」を名乗る[注釈 1]。翌天明2年(1782年)、2代伊勢ノ海死去の後を受け3代伊勢ノ海を襲名。年寄在籍中、勧進元は2回、差添は16回務めており、特に晩年は本場所興業に不可欠な人物であった。一番の功績は寛政3年6月と同6年の上覧相撲開催で、これにより江戸相撲は勧進相撲の中心地として確立された。
弟子育成でも2代目以上の手腕を発揮し、弟弟子の谷風梶之助が横綱に上り詰めたのを筆頭に名力士が続出。直弟子には錦木塚右エ門、初代柏戸宗五郎などの関取がいる[1]。
寛政8年(1796年)、死去。
脚注
注釈
- ^ この時の年寄「柏戸」の名義も当初は一代限りであったが、寛政9年(1797年)の「伊勢ノ海太鼓訴訟事件」により年寄名跡に加えられ、1887年ごろまで存在した。
出典
参考文献
- 生沼芳弘『大相撲の社会学』22世紀アート、東京都中央区、2023年7月31日。ISBN 978-4-88877-240-2。
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