関ノ戸億右エ門 (1736年生)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 00:09 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 関ノ戸 億右エ門 | |||
本名 | 熊谷 重蔵 | |||
生年月日 | 1736年 | |||
没年月日 | 1782年5月28日 | |||
出身 | 陸奥国(現:岩手県一関市花泉町永井) | |||
身長 | 179 ㎝[1] | |||
体重 | 180 ㎏[1] | |||
所属部屋 | 伊勢ノ海部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 関脇 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1757年10月場所 | |||
入幕 | 1757年10月場所 | |||
引退 | 1777年10月場所 | |||
引退後 | 年寄・関ノ戸→伊勢ノ海 | |||
備考 | ||||
関ノ戸 億右エ門(せきのと おくえもん、元文元年〈1736年〉 - 天明2年4月17日〈1782年5月28日〉)は、陸奥国(現在の岩手県)出身の大相撲力士。
来歴
初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。頭書は「仙台」。宝暦7年(1757年)10月場所にいきなり前頭筆頭に附け出される形で初土俵を踏む。その後小結から関脇を務め、三役力士としての貫禄を示した[2]。
安永3年(1774年)、初代伊勢ノ海が没すると、2代伊勢ノ海を襲名し、二枚鑑札で現役のまま部屋を経営。安永6年(1777年)10月場所限りで現役を引退、年寄専務となり、初代同様仙台藩の後ろ盾を得て勢力を維持する。自ら勧誘した大黒柱の谷風梶之助が角界の第一人者となった(横綱免許は関ノ戸の没後)のを筆頭に、多くの門下生が活躍していた。会所内でも初代同様に本場所興業へ貢献した[2]。
天明2年(1782年)、数え48歳で急死。
脚注
参考文献
- 生沼芳弘『大相撲の社会学』22世紀アート、東京都中央区、2023年7月31日。ISBN 978-4-88877-240-2。
- 司東真雄『岩手の歴史論集 Ⅲ 近世文化』司東真雄岩手の歴史論集刊行会、1981年8月31日。 NCID BN02759293。国立国会図書館書誌ID: 000001554810。
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