林鶯渓とは? わかりやすく解説

林鶯渓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 17:37 UTC 版)

 
林鶯渓
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年5月1日1823年6月9日
死没 明治7年(1874年1月10日
別名 晃(あきら、)、伯華()、都賀太郎(幼名)、図書之助(通称)、図書頭、式部少輔
諡号 文懿
墓所 東京都新宿区市谷山伏町の林氏墓地
幕府 江戸幕府
氏族 第二林家
父母 父:林復斎
兄弟 鶯渓学斎
養子:
テンプレートを表示

林 鶯渓(はやし おうけい) は、江戸時代末期の儒学者旗本。鶯渓は隠居後ので、実名は林 晃(はやし あきら)。幼名は都賀太郎、のち図書之助と改め、叙爵後は図書頭または式部少輔を称した。林復斎の長男。

生涯

父の林復斎は、鶯渓(長男)が生れた当時は分家である第二林家の林琴山の家督を継いでいた[1]。父や佐藤一斎安積艮斎に儒学を学ぶ。幼い頃に痀瘻病によって背中が曲がる障碍に見舞われ、復斎がこれを嘆いたとき、佐藤一斎は「禍福は糾える縄の如し」の故事を引用して慰めた。後に鶯渓が立身した時、復斎は一斎に深く感謝したという。

天保14年(1843年)、初めて将軍徳川家慶に拝謁を許される。弘化4年(1847年)、幕府の儒者見習となる。ところが、嘉永6年(1853年)、復斎の甥で大学頭家の当主であった林壮軒が死去、急遽復斎が家督を継承することとなり、弟の学斎を伴い大学頭家に戻った。このため、鶯渓が第二林家の家督を継承して幕府儒者に任ぜられた。鶯渓が父の没後に大学頭家を継承しなかったのはこのことによる。安政6年(1859年)、西丸留守居となり、学職を兼ねる。父の没後は弟を良く補佐した。

明治元年(1868年)に職を免ぜられて、2年後に静岡に移住するが間もなく東京に戻り、門人の教育に専念した。幼い頃から学問を好み、書物を熟読しては要点をまとめた抄書を山のように作成し、成人してからは人に教えることに熱心で少しの時間も惜しみ1ヶ月休みなしで講義を行うこともあったが、公正で温厚な性格から門人からは慕われていたと言う。

家族

林復斎の長男。養子に整形外科学者の林曄(はやし はじめ、山高信離二男)がいる。孫(曄の子)に松沢病院院長・林暲、彫刻家・林是。林の親戚に益田孝石坂泰三らがいる。

脚注

  1. ^ 第二林家は林羅山の子林読耕斎(靖)を祖とし、林春東(勝澄)-林葛廬(春東の養子、信如)-林菊渓(信亮)-林観山(信方)-琴山(信隆)に継承され、文化7年(1810年)の琴山の死によって大学頭家からの養子である復斎が家督を継いだ。

参考文献

  • 文部省編刊『日本教育史資料 七』1892年、596頁(「儒員小伝」より林晃)
  • 石山洋 他編『江戸文人辞典』東京堂出版、1996年
  • 市古貞次 他編『国書人名辞典』第4巻 岩波書店、1995年




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「林鶯渓」の関連用語

林鶯渓のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



林鶯渓のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの林鶯渓 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS